昭和46年09月28日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
金光大神の、芯面目とでも申しましょうかね、もう本当に金光教の信心でなからなければと、言った様なものをここから感じますですね。いつまでも尽きぬおかげ。いわゆる無尽蔵であり、無限であり限りがない。金光大神のそういうおかげの頂けれる道を話にして残しておって下さるのです。だからいかにお道の信心で、話といういわゆるこうして、日々お互い頂いております御理解が、いかに大変な事かと言う事が分かります。
参って拝んで、願うて来た、頼んで来たというだけなら、何様でも何々教でも良いわけですよね。けれども、金光様のご信心はどうしても、そのいわゆる私共がです、いわゆる尽きぬおかげを頂きたいと思うならばです、限りないおかげを頂きたいと、思うならばです。ですからその限りないおかげとは、そのどう言う事かというと、合楽ではそれが見られるのであり、感じられるのである。ここで私が頂いておるおかげが、いうなら限りないおかげです。
もう本当に無尽蔵、どこにこういうおかげの現れて来るおかげがあるのだろうかと思うくらい。だから私の信心がもっともっと育ち、もっともっと大きゅうなりゃ、大きな意味合いで、もっともっと、無尽蔵に限りなくおかげを頂かれると思うです。ですからまぁいうならちょっとしたいわゆる手本である見本である。合楽の信心は。金光大神の教えられた事を、話にしておられるその話を私が頂いて、それを自分の血に肉にして行くという事。だから金光様のご信心はもうこれが第一なんです。
ですから、御理解を頂く、姿勢というものを本気でつくらなければいけない。そこで様々な、いわば銘々工夫をさせて頂いて、その姿勢をつくらなきゃいけない。それは決して同じである必要はない。又誰の何をしなければならんと言う事もない。やはり自分の、いわゆる個性というか独特な、いわゆるその頂き方というものを、お話をお話そのものは同じなんだ。私がここで一人で。
ならここで皆五十人の方が、お話を頂いておられるとするなら、その五十人の方が、それぞれに、頂き方が違っても、それは良いのです。私はここが分かってもらいたいとこう、例えば強調してもですね、信心の程度が低かったら、私がいおうとするところは分かりません。けれども、その枝葉のところでも、それは頂けれるであったら、おかげを受けれんかというのじゃない。
頂くと言う事はどう言う事かというと、分かると言う事だけではなくてですね、信心によって分かると。そうだと分かると言う事は、次に生まれてくるものはですね、さらな心です。私は御理解の値打ちはこれだと思うですね。ただ理解力があるとか、あの訳が分かるとかというだけじゃつまらんでしょう。分かったらそこからね、必ずさらなものが生まれてくる。新しいものが生まれてくる。
いわゆるさらな心、このさらな心というのもね、もう信心が高尚とか長いとかという、ものとは関わりあいはありません。初心の人でも、そのさらの心というものが頂けたら、おかげを受けます。はぁそうだったなぁと、例えば過去に自分の生活がです、信心という、教えも何もない、いうならば、わがままな生き方というものがです、本当にこれは相済まん、これまでであったと気付かせて頂くところから詫びる心が生まれます。それがすでに私はさらな心だと思う。
又はお礼をいう心持ちが生まれます。それがさらな心だと思う。しかもそれが積もり積もってまいりますと、いわゆる尽きぬおかげに繋がっていくのですから。おかげを受けたら神心となりてとこう。真心になりてとも、真になりてともね、慈悲の心を持ってとも、愛の心を持ってとも言うておられぬ。神心となりてというておられます。その神心の中に、ただ今私が申しました、真も真心も慈悲の愛の心もあるんです。神心。おかげを受けて、こういう素晴らしい生き方があった。
こういう素晴らしい道を教えて頂いた。これを人に伝えなければおられん心、それがそのまま神心。丁寧に話をしていくのが真の道を踏んでいく。なるほど真の道を踏んでいくとはそのような事であろうとこう思う。金光大神が教えた事を、違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞと。どういうお礼よりも、それは素晴らしい事だという事。次に「これが神になるのぞ」と仰っておられます。素晴らしい事ですね。私が神心で皆さんに伝える。
それを皆さんが、はぁそうですそうであろうそうであった。今までも知らなかったとこう分かって真の信心に心がむかれ、真の信心をなさる人が一人でも多くなればです、私はなら神になっていけるという事が言えるわけです。それが神になるのぞと。最後のところに、「神になりても、神より上になると思うな」と。これが又素晴らしいですね。これはね、日に日にさらなる。有り難い信心をしていきよらんと、ここんにきが分からんです。三代金光様が、御年わずか14歳。
お父上の四神様がおなくなりになった。後を受けられて、いわばお取り次ぎの座に付かれた。それこそ始めの間はつろうてつろうてよう泣きました、とこう仰っておる。そうでしょうね、数え年の14歳。満13歳。私共でもここで一日座っとかにゃんちいうなら、泣こうごとある。まだお子様であるところの、金光様がですね、ただ親様が「座っておれば楽じゃ」と、仰せられたから座ったけれども、それは楽なことでは決してなかった。つろうて、つろうてよう泣いたと仰せられる。
その辛抱をし抜いておいでられたらね、思うこともなくなり、欲しいものもなくなりと述懐しておられます。素晴らしい事です。いわゆる我情もなくなりゃ、我欲もなくなっておいでられた訳です。いわゆる抜けておいでられた。信心辛抱。しかもそれを七十年間という長い間を、それこそ一日のごとく勤めあげられた。朝の四時から、夕刻の四時まで。それこそ朝はあさぼし、夜はよぼしと言う様な、とてもとても人間技では出来ようと思えないような、大修行というかね。
もう本当にただ、驚くばかりの事がおできになられた。そして思うこともなきゃ、欲しい事も、ものもなくなって。ただあるものは、有り難うて有り難うてと言う事になられた。有り難うて有り難うて。そのお礼の足りない、お詫びばかりを申しておりますと仰った。あぁいう例えば大徳を受けられ、もう生神様それこそこのくらい、厳格なまぁいうなら、生神としての御神徳を受けておられると、頂かせてもらえる金光様がですよ。有り難うして有り難うして、お礼ばかり申しておりますというところにはですね。
それは生身を持っておる人間の事です、金光様とてもお生身でございますから、ひょっとすると神より上になる心が起きられんとも限らない。ところがです、もうどれだけ勤めましても、どれだけ勤めましても、これで良いと思うておられないわけです。限りがない。これですんだとは、教祖様のお言葉の中にもそれがございますよね。あれだけ実意な限りを尽くされておりながら、これですんだとは思いません。
人間凡夫の事でございますから、何処にお粗末やらご無礼やらあるやら分からんと、ただひたすら神様にお詫びをし抜いておいでられた。三代様においても然りの事が言える。それほどしの大徳を受け、それほどしの信心辛抱しぬかれて、思うことも欲しいこともと、いわゆる我情も我欲も抜けきられた金光様がです、ただ有り難うて有り難うてという、その境地に浸らせて頂いておられながらです、そのお礼の足りない、お詫びばかりをいたしております。
もうここにいたって、もう本当に至高と申しますかね、最高と申しますか。けれども金光教の信心はここだと思いますね。だから私共が、とてもそういう真似は出来ませんけれどもです、やはり目指すところはそこじゃなからないけん。どんなにおかげを。この辺のところが、少し信心が分かって来ると、すぐ割り切った考え方、ドライな考えですね、今の言葉でいうと。ですからもうドライになったら、決してそんのものは生まれません。信心はそこまでで止まっておるです。
いわゆる日に日にさらにというところがね、生まれてまいりません。これほどどれほどの信心の修行が出来ても、これですんだとは思わないと言う所、ところにですやはり私は一番初めに仰る、限りないおかげに繋がって行くと言う事の、神髄と言った様なものが、あるようですね。私は今日はここんところの、神より上になるとは思うな、と言う事、今まで色んな表現をしてまいりましたが、今日は私はここんところをですね、神へのお礼ぞ。神になりても神より上になると思うなという。
ここんところをえらい、まぁ強調して頂いた感じがいたします。神へのお礼というのは、私共が本当に神心となりて、という事です。しかもその神心が、又次に神心の人を作って行くというのが、真の道を踏ませることになる。しかもそれが神へのお礼として、神様受けて下さるから、そのお礼を神様が受けて下さらんはずがない。それに引当のように頂けるのが、限りないおかげである。ならそれだから、もう私はここまで出来たから、こういうおかげを頂けるごるなった、ではなくてです。
そのお礼の足りない、お詫びばかりをいたしております、というところになって来る。神より上になる、慣れる筈がない。お詫びばかりを致しておりますのに。私は今日はここんところは大変素晴らしい事だと、改めて気が付かせて頂きました。ただ、だからお礼だけじゃいけん。ただお礼だけで、今日もおかげを頂きした、そりゃ最高にですね、この心からお礼を申し上げる、そのお礼の印に、こういう信心が出来ておると言う事はです、又素晴らしい事。
けれども、ならこういうおかげを頂かせてもらっておると言う事がね、いわゆるこのくらいな信心。私ぐらいな信心。でこれ程しの事を頂いて、勿体無いも生まれてまいりましょう。又はお詫びばかり、足りない事のお詫びばかりをしておりますと言う事にまでなってくるんじゃないでしょうか。今朝私御神前にでらせて頂きましたら、あの勝太郎と頂いた。昨夜の皆さん、久留米の共励会に私が帰ってこられるのを、まっとる時間をテレビを久し振りでみ、久し振り本当に久し振りに昨日見せてもらいました。
この頃何か、テレビの前に出る事がなかった。そしたら丁度その、勝信太郎の「悪名」という、随分前の映画でしょうけれどね、それがあっとりました。悪名と。悪の名と書いてあるね。悪名。どう言う事だろうか、夕べ見せて頂いとったから、それがこう潜在意識の中にあって、そう言う事を頂いたんだろうかとも、思わせて頂いたけれど、今日、この61節を頂いて、成程勝信太郎なぁと思いました。
いわゆる今日私が、この61節から日に日にさらと言う事。これはもう信心が後者とか若いとかじゃありません。いわゆるさらな心が起きたら、もうさらな心には誰だって、かないません。そのさらな心が神様に向けられたら。お参りをさせてもらう。初めて頂いたお話。感動する。今までしらなかった、こういう素晴らしい道があったのに、生き方があったのにと感動する。もうその心にはですね。
もう十年信心しとります、二十年信心しとりますというてもね、もうその人は詳しいだけでさらなものがないなら、もうそれにはかないませんです。だからさらなものには勝たん、勝信太郎とはそういう事だと思うた。まぁ昨日の映画の一つのストーリーを、まぁ申しますなら、田舎での青年。非常に正義感の強い喧嘩の強い男。それがその遊びたい、遊び人達に次から次と、もういよいよ大変な、子分を二千人も持っとると言う様な、親分達に、最後に接していくわけですけれどもね。
初めは、まぁ程度の低い親分だろうと、まぁその誰とでも喧嘩、わたりあっていくわけですけれども。それでその遊び人と間違えられる。実際は遊び人じゃない。自分はヤクザはすかんとこういってる。けれども、喧嘩しなければならないはめに、それがその正義の虫がおさまらないわけですね。それで悪い者を見たら、そのじっとしておられないというたちなんです。そしてなら勝信太郎演ずるところの浅吉ですかね、申しておりますとは、自分は強い者にぶつかりゃぶつかるほど力が出てくるというんです。
信心もこれなかにゃいかんです。問題が大きければ大きいほど、当る事が大きければ大きいほど、ファイトが湧いてくるという信心でなからにゃつまりません。信心するとに、どうしてこんな事になったじゃろうかなんて言う様な心ではもう、絶対信心は進みません。それまで。御神意御神願。または御神愛。としてねそれを頂いていけれる信心。はぁこれによって神様が、又一力下さろうとしておるなぁ、と言った様な心なんですよ。そこにあるものが、いわば生き生きとしたいわゆる心。さらな心であります。
今日はこの手で、と例えばご理解いただいて、はぁ今日この御理解を本気で行じぬこうと思うてかえります。そすとなんかちょっと問題があると、もう又元のもくあみになってしまっておる。はぁ今日はこれで修行させて頂くんだなぁというような、そういう受け方なんです。これはですね、そういう、その生き生きとした心で頂いておりませんと、昨日の御理解の中に、久留米の佐田さんの例をとりましたですね。今度のお月次祭、霊祭の日にお供えをした、あのラーメンが落ちたとお三方から。
それとこうひやっとする程、まぁ感じたと。こういうのがね、ひやっとする様なもの、それがさらな心なんです。自分にお供えしたつが、その落ちようが転ぼうが一つも感じない。こんな鈍感な信心じゃだめです。そこにはっと御神意を分かろうとする姿勢ですね。そして分からせられた事はです、新しい新味のラーメンがきておったから、それをお供えしようと思ったけれども、あまり高いところにあったから、もうよかよかというて、その、あの落ちた二つはお供えしておられたんだと、と言う事です。
神様は厳しいなぁと。夕べ共励会、皆さんが迎えに見えて、私は上で久富先生から足をもんでもらっとった。そしたらわざわざ奥まで見えてから、もう先生今朝からの御理解を頂いて、いよいよ改めて分からせて頂いたことは、小さい事でもう本当に、大変な大きなことを分からせて頂いたというておられます。それ以来そのラーメンだけが、いうなら跳ぶように売れよったその、あぁそのラーメンがね、それだけがぴしゃっと売れんごつなったちゅうんです。
昨日朝、御理解を頂かせてもろうて、本当それどころじゃなかったと思うて、昨日は帰られたら、不思議な事です親先生、昨日は又あのラーメンがどんどん売れ出しましたっち。23日から、今日まで何日になりますか、4、5日間は、もうそれこそ毎日売れよったのが売れない。それは、昨日の朝の御理解を頂いて、本当にたったあのくらいなことで、神様があぁいうお気付けをくださって、こういう大変な大きなことを分からせて下さったとしての思いがです、さらな心です。
そしたらもう本当にまぁ何時ものことながら、神様の働きのね、びにいりさいにわたってその良いこと、悪いことにつけてね、おかげも的確なら、又お気付けを下さることも的確だというところにね、佐田さんの信心のそれこそ、芯面目があると思うですね。一家をあげての、あぁした信心修行。私はねお道の信心させて頂きよって、あのお気付けをお気付けとです感じきれない。キャッチできない時には、もうすでにさらな心がない時です。又自分で割り切っておる時です。これは私は恐いことだと思います。
もう本当にもうささいなことにでも、神様がね、こう言うて聞かせておって下さるように感じる。間違うたら間違うたところをぴっしゃっとこう、教えて下さるように、ことが起こったり、それこそ人の話の中からでもですね、子供の泣き声の中からでも、神の声として聞きとめられる。キャッチできれる。はぁ神様があぁいけんと言いござる。しゃんとせんかと言いござると言った様なものがです、感じ取れれる信心。そういう信心でなからなければ、さらな信心とは言えません。
それが本気で生き生きとしてですね、それこそ勝信太郎の浅吉じゃないけれども、強い者にぶつかるといよいよ力が出てくるという、ファイトが湧いてくるという信心なんです。さらな心とは。そういう信心が繰り返しなされて行く。そこから例えばお礼を申し上げなければおられない。いわゆるお礼の、お礼の為の信心がさせてもらわなければおられないという事になって来る。
おかげをおかげと分からせてもろうて、本当にお礼の信心が出来るなら、もうおかげは限りなく頂けてくるでしょう。そこで自分はこういう信心にならせて頂いたから、限りないおかげが受けられておる、という思い方ではなくてです。そこ辺からが又、いよいよ最高の磨きをかけていかにゃならんという事がです、自分の信心というものを、例えばその人が珍しいなるほど、ほどしの良い信心をさせて頂いておってもです、これですんだとは思わないという、お礼の足りない。
お詫びばかりをしておりますと言う様な信心に、入っていきませんとです、神よりも上になることになります。いうなら先生より上に立とう、なろうとすると言う事になります。そこまでの、私は信心がだんだん身に付いてくるようなおかげを頂きたいと思う。お互い一つ本気でどういう信心させてもろうたら、日に日にさらな信心が、日常生活がどのようなささえなことでも、おかげの上においても受けとめるなら、お気付けの上においても、受けとめれる。
キャッチ出来れる心の状態というものをいかにして作るかというところに、私は焦点を、日々おいていかなきゃいけない。それには先ず私共の、まぁいうなら信心のいわゆる若い者というかね、信心の未熟なものは、修行にこしたものはないと思います。水に刺してある草花が少ししおれてきた。そういう時に又そこんところからスパッと切って、切るとかね、又は焼くとか又は叩くとか致しますと、又新たに水を吸い上げるようにですね、生き生きとしてくるように。
私共がスパッと改めて切り捨てて行くとか。改まって行く。又は自分の心を叩いてでもです、そこに本気で修行に取り組むとかと、というところから生き生きした、いわゆる瑞々しいまでの信心が出来てくると思います。「神より金光大神に何時までも、尽きぬおかげを」ここんところを、こうなんか今まで簡単に頂いておったように思う。尽きぬおかげとはもう、無尽蔵の限りないところの、おかげに繋がることの出来れる信心。金光大神はそのような信心を教えておって下さるのでございます。
私共の心いよいよ神心を目指してのお互いの信心。そしてお礼だけじゃない。それこそ、三代金光様ですらが、あれ程しの生神様のお徳を受けておられると思われる程しの金光様がお礼の足りない、お詫びばかりをいたしておりますと、仰っておられる程しの事でございますから、私共が厳密に自分自身の信心を思う時にです、とてもとても足りないことばっかりでございましょう。そういう例えばお詫びでもです、唯お詫びをしよりますだけじゃなくて、そういう生き生きとしたさらな心でお礼を言い、さらな心で詫びなければ生き生きとして神様に伝わっていかんのです。
どうぞ。